20年ぶりの再会

2005年2月10日
東京出張2日目。

慌しく午前中の予定をビッグサイトで2件同時にこなし、昼時に向かったのは品川駅。
ここで足利市から来てもらったI氏と会い、一緒に白金台のある中華料理店へ。
元ファッションモデルで、テレビや本で中国料理を教えながら、中華レストラン数件を経営するS女史の店を訪ねて行った。
店に入ってすぐに彼女が「いらっしゃいませ」と迎えるがまだ気付かない。
私はすぐに分かった。
ぜんぜん変わらない。
手を挙げると私と分かったようで、待機席へ。
席が用意され、そこで改めて挨拶。
20年ぶりの再会だ。

彼女とは、I氏がプロデュース、私がディレクションで1985年におこなった日本の3企業による中国での初のポリエステル薄地織物展示会(中国絲調公司協賛)で一緒に仕事をした。
彼女は北京のファッションモデル第1号で、初めて会ったときには既にモデルとして十分な貫禄を持っていた。
他に2名のモデルを加え、3社の素材で作ったガーメントを着てもらい、フロアショーをした。

S女史達は当時、中国北京の服装工業公司の傘下にあった時装雑誌社の時装表演隊に所属していた。
I氏は大手総合商社の部長で、米国にある現地法人の社長を8年務め、帰国してそのプロジェクトを担当していた。
私は、現在私が勤めている大手繊維メーカーの仕事を請け負っている企画会社に所属し、このプロジェクトを担当して、展示会の運営とショーの構成、演出などを受け持った。
当時の年齢は、I氏が53歳、S女史が29歳、そして私が35歳。
みんな若かった。

本番は1985年3月初めにスタートし、北京、上海と公演した。
僅か5ヶ月という短期間の準備ではあったが、I氏と何度か出張し、初めての体験を幾重も重ね、多くの感動を得、いい仕事ができたと思う。
21年前の北京、上海に会えたこの仕事は、その後の私と中国との接点の原点になった。
今日、再びその記憶が鮮明に蘇ってきた。
私のPCに取り込んでいる写真を3名で見ながら、その後の軌跡をお互いに話し合った。
全ての人がそうであるように、この20年間、3名がそれぞれドラマのようなストーリーを持っていた。
人の歴史の重さを感じた。
時間は確かに残酷だが、味わい深い実りを残してくれている。

僅かに2時間の短い会見だったが、3人はそれぞれの人生の今後を祈念し合い、別れた。
その後私は柳橋に向かい、次に勤める会社の東京支社を訪れ、ボスのY氏に会った。
幾つかの打ち合せをするためである。
中国に今回作った法人の全ての事項がこの董事長と総経理の打合せで決まる。
スケジュール、人選、予算の修正など、懸案事項を協議し、2時間弱で終えた。

羽田空港への道のりでMSさんに電話し、彼女の意思と条件を再度確認した。
どうやらまだ可能性は十分にある。
私の心の中にかかっていた霧が少しはれてきたようだった。

羽田空港へは早めに行き、関西空港行きの4便にキャンセル待ちをかけた。
さすがに3連休前日、どれも満席だったが、順位はグローバルで15番目ほど。
まずは問題はなく乗れる位置だ。
レストランに行き、この出張の間で一度も口にしなかった寿司を食べ、ラウンジでゆっくりし、空席待ちカウンターで再登録し、Jシートをゲット。
飛行機に乗り込んでびっくり、なんと通路を挟んでの隣が自宅の隣のご主人。
めったに顔を合わすことのない者同士が、同じ便、それも隣の席で一緒になるなんて、お互い偶然に驚く。

帰宅してこれを書いている背後でテレビがなにやら聞き覚えのある音声。
えっ、まさか?
なんと、「星願」ではないか。
リッチーとセシリア、いや、オニオンとオータムのあの映画だ。
書くのを止めて観入ってしまった。
勿論、大好きな映画であるだけにDVDを持っている。
でも、オンエアされているものを見逃すことはできない。
案の定、涙が出て止まらない。
私の涙腺は完全に壊れていた。
真夜中、誰もいないのをいいことに声を上げて泣いた。
泣くことでこの数日間あったいろいろなことが流れて行くような気がした。

この映画には最後になければいいのにと思うフレーズが出てくる。
必要のない言葉だ。
確かに作品としてはないほうがいい。
映画の終盤のオニオンの素晴らしい言葉がかき消されてしまうからだ。
しかし、私には表現できないきれいな言葉で、大好きなポエムだ。
愛するオニオンが天に呼び戻され、流れ星になるのを見て、オータムが言うセリフ。
「流れ星って、夜空が流す涙なのね」

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