ガン患者支援集会について
2006年3月22日起床は6時30分。
朝、NHKプレミアムを観ていたらガン患者を支援する番組があった。
当然ながら、放送局の慈善報道意識がプンプンしていたが、紹介されている人の事実はそういう低次元では測ってはいけないと反省。
やらないよりやるほうがはるかに良いのだから、これはこれで評価できる。
それにしても、日本の医療行政は後手後手だ。
患者同士の連携がこれまで何も取られていなかったことに驚く共に、理解ない行政、自分勝手な医療機関に翻弄されながらも地道な活動で連絡会を作ってこられた患者の方々に頭が下がる。
死と直面する病気だけに、患者間の連帯といっても、死への距離が違う方同士で共同歩調は取りにくいと思う。
それを支援集会の実現にこぎつけられたのは、ひとえに患者の方々の身を挺しての訴えに他ならない。
死と向かい合い、いかに気丈に自分自身を保つか、我々には想像できない恐怖の中で患者の方々が懸命に支え合おうとされていることを知った。
これは、他人事と思っていてはいけないと思う。
明日はわが身、というよりも、純粋に生きることの大切さを考え直させてもらうということだけでも我々にとって大きな意義があると思う。
番組を観ていて、我々が日頃直面している事件や問題がさほど大きなことではないのかもしれない、と思えることに気付いた。
ややもすれば、解決できないと思い込み、問題から逃避して自ら死を選ぶ愚かな結果に走る人もいるが、とんでもない話である。
本当に病気という避けられない運命の死に直面したら、あらゆる問題よりも優先されることを知るだろう。
我々は平和な社会の中に生きている。
もし、今、自分の国が戦争の真っ只中にあるとしたら、おそらくその対応で一生を終えるかもしれない。
或いは平和に、或いは防衛戦闘に・・・。
また、卑怯で自分勝手な国に拉致され、強制的に人生を狂わされた人、戦争で置き去りにされた残留孤児の人など、一生をかけて人生を修正することを余儀なくされた人たちの苦労や生き様などなど・・・。
ほんの一部の人と思われている「不幸な人たち」が実はどこにでも起こりうる可能性と背中合わせの出来事であることを知らねばならない。
ガン患者の方々の運動が私にそれを改めて教えてくれた。
生きている、それだけで幸せなのだ、と。
朝、NHKプレミアムを観ていたらガン患者を支援する番組があった。
当然ながら、放送局の慈善報道意識がプンプンしていたが、紹介されている人の事実はそういう低次元では測ってはいけないと反省。
やらないよりやるほうがはるかに良いのだから、これはこれで評価できる。
それにしても、日本の医療行政は後手後手だ。
患者同士の連携がこれまで何も取られていなかったことに驚く共に、理解ない行政、自分勝手な医療機関に翻弄されながらも地道な活動で連絡会を作ってこられた患者の方々に頭が下がる。
死と直面する病気だけに、患者間の連帯といっても、死への距離が違う方同士で共同歩調は取りにくいと思う。
それを支援集会の実現にこぎつけられたのは、ひとえに患者の方々の身を挺しての訴えに他ならない。
死と向かい合い、いかに気丈に自分自身を保つか、我々には想像できない恐怖の中で患者の方々が懸命に支え合おうとされていることを知った。
これは、他人事と思っていてはいけないと思う。
明日はわが身、というよりも、純粋に生きることの大切さを考え直させてもらうということだけでも我々にとって大きな意義があると思う。
番組を観ていて、我々が日頃直面している事件や問題がさほど大きなことではないのかもしれない、と思えることに気付いた。
ややもすれば、解決できないと思い込み、問題から逃避して自ら死を選ぶ愚かな結果に走る人もいるが、とんでもない話である。
本当に病気という避けられない運命の死に直面したら、あらゆる問題よりも優先されることを知るだろう。
我々は平和な社会の中に生きている。
もし、今、自分の国が戦争の真っ只中にあるとしたら、おそらくその対応で一生を終えるかもしれない。
或いは平和に、或いは防衛戦闘に・・・。
また、卑怯で自分勝手な国に拉致され、強制的に人生を狂わされた人、戦争で置き去りにされた残留孤児の人など、一生をかけて人生を修正することを余儀なくされた人たちの苦労や生き様などなど・・・。
ほんの一部の人と思われている「不幸な人たち」が実はどこにでも起こりうる可能性と背中合わせの出来事であることを知らねばならない。
ガン患者の方々の運動が私にそれを改めて教えてくれた。
生きている、それだけで幸せなのだ、と。
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