JJ、暖かい

2006年4月11日
起床は6時30分。

常熟行きの車が9時に会社から出るので、8時45分にサンドイッチを買って出社する。
今回、工場面積を一挙に5倍半に拡床したので、建物の西端に移転させた事務所は結構広く、近い将来の増員に十分対応可能で、接客や会議などもし易くなった。
さらに、それまでは手狭で設けていなかった総経理室ができたので、オープンにできないデスクワークや打合せなどができるようになった。
しかし、いくら居心地がよくなっても常熟にいては営業活動ができないので、ここへは月に3〜4回しか行けないだろう。

幾つかの案件を処理し、上海へ戻ったのは20時過ぎ。
自宅後にしたのは昨日うまく行かなかった無線LANの再セット。
なんと5分ほどでできた。
昨日のた打ち回った1時間は何だったんだろう。

その勢いで仕事を片付け、22時20分にメールが送れた。
期限の40分前だった。
仕事が片付いたら急に腹が減った。
そういえば何も食べていなかった。
カップ麺を作って食べ、いつもの青島ビールを2本飲んだ。

JJさんから電話が入り、仕事は済んだかとの質問。
「一杯一杯」という自分の目の前のことよりも私を気遣ってくれる。
大丈夫だと伝え、向こうの状況を聞きながら、目頭が熱くなった。
本当に心配してくれているのだ。
嬉しいという気持ちが感謝になり、当然、自分にとってこの人の存在の大きさを思い知らされた。
まだ友人たちとどこかで楽しいひと時を過ごしているJJさんに、無粋にも帰宅を促しながら、心では合掌していた。

シャイで優しく真っ正直な人、JJさんの温かさを垣間見た。

あえなく討ち死に

2006年4月10日
起床は6時30分。

最近、よく眠る。

6時間半はとっくに超越し、いまや8時間睡眠に達しようとしている。
健康的だ。
自力ではこうはならなかった。
早く寝ろとうるさくいってくれる人がいるからできることだ。

元々、私の夜更し癖は、40年以上の歴史があり、しっかり見に染み付いていて、簡単には直せないものだった。
それをあっさりと変えてくれた。
JJさんには心から感謝している。

しかし、向こうは睡眠時間が減り、体力が落ちているという。
申し訳ない限りだ。
前にも書いたが、向こうにとっては不幸な状況かもしれないが、こちらにとってハッピーである事は確かだ。
ま、恵まれない独居老人へのボランティアとして、諦めてもらうしかない。

月曜日の出陣式はいつもあっさりしたものだ。
朝からジョギングのJJさんは声が弾んでいたが、こっちは週明けのアイドリング状態でなかなかエンジンの回転数が上がらない。
ようやく調子が戻ってきたところで昼食ブレイク。

OYさんが来たのでL部長、FAさんと交え、4人でビルの1階の焼肉屋へ。
先般の帰国で本を少し整理したら、名古屋にちなんだ文庫本があったので名古屋出身と聞いていたOYさんに上げるつもりで持ってきた。
しかし、OYさんはどうやら名古屋に対していい印象を持っていないようだ。
名古屋の人なら喚声があがるであろう本を淡々とめくっていた。
愛媛生まれ名古屋育ちで、愛媛に重心が乗っているのだろう。

夜、一人で「花蝶」に行き、寂しく食べる。
なぜか、美味しくない。
JJさんはいとことデート中とのこと。
「いいよな、どうぞ、楽しんでくれ」とやけ気味の酒をあおる。
店員が声を掛けてくれてもちっとものらない。
尤も、この夜は料理自体もいまいちで、オーダー11個でマルは5個だった。

帰宅後、不調だった無線LANがおかしいのでいじくったがうまくつながらなかった。
おかげで、オンラインの必要なメールと日記はモデムの近くに行って接続。
今夜はオンラインで遊ぶ時間などあまりない。
本社への報告書提出の期限は明日中。
徹夜覚悟で頑張ったが、午前3時であえなく討ち死に。

一体どうしたことだ。
徹夜ができなくなっている。
4月5日に帰国してから、就寝時間が早くなっているのだ。
午前零時を回ると頭が働くのを止める。
午前3時、これが精一杯だ。

7元の麺

2006年4月9日
起床は9時30分。

ダラダラと惰眠をむさぼり、まだ寝足りない身体に鞭打って起床。
雨で気温が下がっている。
昨日まで27度/16度だったのが、18度/13度に下がっている。
明日、明後日はもっと下がると言う。

昼に起きて、JJさんと会い、久しぶりに近所の米粉屋で麺を食べた。
1年前に食べた6元の麺が7元に上がっていた。
しかし、近所の安くて美味い米粉店が強制立ち退きの目に遭い、残ったこの店に客が集中している。
つまり、虹橋のこの辺りはほとんどの店が高くて、安い店は少なく、地元の人が食べに来られる店としてこの米粉屋は存在感を持っている。
多分、私一人では食べに来られない事は確かだ。

その後、「百盛」で開催中のバーゲンを見て回ったが、私は特に欲しいものもなく、JJさんはスポーツ用品売り場でジョギングウェアとシューズを買った。
この人は健康的な考え方をしっかりと持っている。
しかも、どんなときでも目一杯楽しもうとする。
参考にしなくちゃ。

夜は近所のタイ料理。
あまり美味しいとは思わなかった。
日曜日の夜だから客も少なく、なおさらパッとしないディナーだった。
明日からまたバタバタが始まる。
早めに寝ようと思う。

最悪のスコア

2006年4月8日
起床は4時30分。

上海に来る前からの友人で、こちらにしっかり根を下ろしているHHさんがゴルフに誘ってくれた。
5時10分に我が家まで迎えに来てくれて、さらに近所の日本人を一人ピックアップし、嘉定まで走った。
彼のゴルフ好きは仲間の間では有名で、行こう、行こうと声はかけるがなかなか実現できなかった。
それが今日実現したのだが、最近の私はひどいスコアの連続で、とてもゴルフをしています、なんて口に出して言えないものだ。
案の定、3人の中で私一人が蚊帳の外だった。

もう一人の日本人は、50少し手前の大阪人で、小太りでパンチのあるショットを放つ。
しきりに自分のクラブでないことを強調していたが、その彼にも負けたのだから、悔しいと言うレベルはとっくに過ぎてしまっている。
距離は出ないが安定している、華麗なティーショットからは、到底このひどいスコアは想像できない私のである。
情けない極みだった。
来週も顧客と行くが、どうなることやら。

ゴルフが終わり、帰宅して待つとJJさんがやってきて、昨日の侘びではないが「花蝶」で食事をした。
でも、さすがに、ゴルフの成績が悪かったことでの八つ当たりはできなかった。
そろそろ、お互いの立場の強弱(上下というか)が明確になってきたと思う。
強い方はさっきまで私の目の前で「花蝶」のスタッフと楽しそうに話をしていた。

独居老人のひがみ

2006年4月7日
起床は7時00分。

昨夜はさほど夜更ししなかったのだが、朝、起きられず、7時にJJさんがくれた電話で目を覚ました。
JJさんはジョギングをしたあとの爽快な気分を声に載せていた。
朝食は会社でいつものサンドイッチ。
だが、L部長が出張しているので、彼の分はアーイのLXさんが食べた。

○○の会の幹事のYKさんからメールが入り、次回の会場候補は決まったかと聞いてきた。
今度は虹橋でしようということになり、会場探しは私がすることになっていた。
幾つかの店を考えてはいたが、これと言うのはなかった。
というのは、私がよく行く店はこの会の趣旨から少し外れてしまうからだ。
できるだけローカル色の濃い方がいい。
洒落た店はむしろよくないのである。

スタッフにもあちらこちらに聞いてもらったが、みんないい店に行っているためか、なかなかいいのが出てこなかった。
そこで、友人のOYさんに聞いてみた。
会社のPC環境をサポートしてもらっているシステム会社の営業で、若い日本人女性である。
1年前の車上荒らし事件の際に、まだ一度しか顔を合わせたことがなかった私を助けてくれた人だ。
以来、何かにつけて私が電話で頼みごとをするメンバーの一人となっている。
彼女もこの会には一度参加しているだけに、話が早かった。

OYさんが教えてくれたのは、会社から歩いて5分の店で、いつも前を素通りしていたが、見てくれは悪くなく、会の趣旨にもぴったりはまるし、何よりも立地がよい。
すぐに昼食がてらに下見を決行。
スケジュールは入っていないと言うので呼び出した。
但し、私は、過去の行状から、いかなる場合も女性とのツーショットを厳禁されているので、会社のFさんも加え、3人でたべることにした。

店はドンピシャのレベルで、味は万人向き。
予算的にも外れていない。
早速、予約を入れたが、空いている個室はないとのこと。
「没関係」で大きな2テーブルを押さえた。

午後からの仕事は、顧客からのリクエストの対応など、特にL部長不在のリカバー案件が結構あり、週末とあいまってそれなりに忙しかった。
終業後、いつものプールに行ったが、ダラダラと10往復(700m)ほどして止めた。
本当は、もう少し泳いでいたかったのだが、プールも4回目で身体も少し動くようになってきており、バリエーションを拡げようと背泳を始めてすぐに変形プールの凸部で右ひじを思い切り傷めてしまった。
激痛である。
あとは泳げず、早々に引き上げた。

2月半ばの肉離れといい、今回のことといい、またみんなに冷やかされる原因を作ってしまった。
でも、誓って言う、決していいカッコをしたかったのではない、ということを。
確かに超ビギニの欧米系ヤンママがいたし、若い女性もそこそこいた。
だからと言って、そこでいいカッコをして何の得があると言うのか。
私はそんなには愚かではない。
ま、多少、愚かしい事は否めないが・・・。

21時過ぎ、自宅に戻ったが、食事を取り損ね、結局は飯抜き状態になった。
そこへ、会社の食事会の後、ディスコへ行っていたJJさんから電話が入ったので、私はなぜか怒りが爆発。
何か悪いことをしたのかと聞かれたが、JJさんは何も悪くはないので答えられなかった。
要は、向こうが楽しそうに時間を送っているだけで無性に腹が立ったのだ。
空腹が為せる私のわがままに、とんだとばっちりを受けたことになる。
いつもこのような被害に遭わせて、本当に申し訳ないと思う。

あまり、好き勝手言っていると、バチがあたる事はわかっているのだが・・・。

一人、居酒屋で

2006年4月6日
起床は7時00分。

旅の疲れのためか、ぐっすり寝た。
9時に迎えの車が来て、上海事務所経由で常熟へ。
車中でしっかり眠り、11時前に常熟工場に着いた。
拡床の内装工事は順調に進み、新しい事務所は広々としていた。
いずれはここも手狭になってくれと願う。

工事のダメ出しをし、経理関係の承認押印などをし、17時過ぎに常熟を出た。
19時に上海へ戻ったが、日中に仕事が捗らなかった分を少しでもやろうと事務所に寄った。
しかし、少しだけ頑張ったが、居眠り混じりなので1時間ほどで切り上げた。
どうも疲れが溜まっているようだ。

自宅へ戻り、服を着替えて、「花蝶」へ行った。
はっきりしたことがある。
一人で食べるのは実に寂しい、ということだ。
以前はいつも一人だったのに、一人でも食べやすい店なのに、どうしてこんな女々しいおセンチ野郎になってしまったのだ。
誰か知り合いはいないか、店の中を見渡したが、虚しくなってまた一人で飲みだした。

若い頃、自宅近くの居酒屋のカウンターで、一人酒をよく飲んだものだ。
賀茂鶴の特等をぬるめの燗にして、肴はあっさりしたお浸しとか漬け物。
時にはちょっと贅沢に、鯛か平目の刺身も食べた。
確か25歳の頃で、あの頃から酒の飲み方が変わった。
肉もあまり食べなくなった。

その頃の私は、今では大嫌いなパチンコや競馬が好きだった。
しかも、結構勝っていた。
阪和線の鶴が丘駅前でパチンコをして、勝てば踏み切りを渡ったところにあるその居酒屋で飲んだものだ。
懐かしくなって、15年ほど前に途中下車したら、パチンコ店はつぶれていて、居酒屋は区画整理で立ち退いていた。
移転先はわからなかった。
あの店主夫婦も今はおそらく70歳以上だろう。

ゆっくりと見える時の流れの速さを知る。
昨夜からそのまま朝になった。
日付は変わるが、眠っていないと頭の中の日付はそのままなんだろう。
だから今日は2倍生きてやる。
昨日と今日の日付をダブらせて。
敵は睡魔かな。

朝6時、チェックアウトし、ホテルカーのレクサスに乗り込み、そのまま空港まで寝た。
確かにいい車だ。
よく眠れる。
いつもこれならいいのだが、中国ではこの車はかなり高くて現状では乗れない。
尤も、日本では自分で運転しなければならないから、たとえこの車が買えてもこの快感は得られないだろう。

空港ではいつものパターンで、ラウンジでPCをいじくることで睡魔を払いのけていた。
帰りの機内では往きと同じ客室乗務員がアテンドしてくれた。
口の右下にほくろのある優しい顔立ちの日本人で、慇懃でなく、接し方が自然で気持ちよかった。
JAAは最近、台湾人スタッフの責任者が増えている。
これはいいことだ。
サービスがきめ細かく、メリハリがついている。
日本人スタッフもそれに引っ張られてレベルが高くなっていると思う。
親会社のJALに比べてはるかにいい。

関空では一度入国し、ターミナルビルを約2時間うろうろし、JJさんからから頼まれていた昆布茶など細かいものを買いあさり、さらに中に入ってラウンジで2時間過ごし、睡魔と闘った。
乗り継ぎがよくなく、早朝便で台湾から日本へ帰り、上海へは5時間半後の夜便で戻るという、一見無駄な時間の使い方を余儀なくされたが、実はこういう時間の使い方が好きで苦ではない。
これも歳のせいだろうか。

浦東空港には誰かが迎えに来てくれるかもしれない、と思うと飛行機の中でも眠れなかった。
いろいろと楽しいことを考えている。
気持ちが弾む。
たった4夜留守をしただけなのに、上海が懐かしかった。

ところが空港には当然来ていなかった。
昨夜の電話で、仕事が終わってからだと時間が間に合わなくなるかもしれないから、途中でピックアップする約束になっていたからだ。
でも、本当は来て欲しかった。

飛行機を降りてすぐにメールを入れ、タクシーから電話をすると、まだ食事中だからタイミングが合わないという。
だんだん腹が立ってきた。
本当は怒ることなどないのに、相手のやさしさに甘えてしまう。
自分のキャパが小さくなっていることが恥ずかしい。

何とか会って、気の効いた土産らしいものなどなかったが、何とか渡すことができた。
でも、あまり喜んでいなかったようだ。
そりゃあ、あれだけ大声で怒鳴ってしまったのだから、気分も悪いだろうし、夜遅くに呼び出したことも腹立ちの原因かもしれない。
土産の内容自体も今一だったようだし・・・。

でも、いつも思うが、向こうにとっては不幸なことかもしれないが、こちらにとってはハッピーであればいいのだ。
自己中と言われようが、構わない。
所詮、私はそういう人間かも。
なぜならば、戻ってきて最初に見たかった顔だから。
昨夜、台湾料理店を出て、彼の友人が帰った後で、今度は彼の部下が加わり、4名で林森北路のクラブへ行き、3時間。
その後、カラオケボックスにクラブのスタッフ8名も一緒に行き、」3時間。
さらにそのままピアノバーに移動して、1時間半。
結局、4時半まで飲んだ。

完全に出来上がった私はホテルまで彼の社員に送ってもらい、目が覚めたら9時30分。
9時のアポはすっぽかすことになった。
すぐに謝罪の電話を入れ、アポを夜に変更。
さらに、次の訪問先の約束時間を少し遅らせ、風呂に入って酔いを醒まし、服を着て、
タクシーに乗り、35分かけて汐止へ。

戦闘再開の成果はやはり厳しいものだった。
そもそも台湾市場に対し、適合した商材を持っていないでやって来ている。
日本市場の値崩れを防ぐために価格を統一しなければならない。
だが、台湾での実勢価格は日本の60%。
そのままでは到底参入できない。

後発で市場参入するということはユーザーにとって明確なメリットがなければならない。
ユーザーははっきりそれを求めてくる。
だのに、それを追いかけてはいけないと本社はいう。
せめて、市場に適した商材の開発をさせてくれと頼んでも、後々に自分たちの商圏に影響を与えるかもしれないと危惧して、なかなか首を盾に振らない。

手塞がりの中での台湾訪問は一層に足取りを重くする。
せめて個人的なつながりを頼り、市場とキャッチボールしながら少しずつ駒を進めてゆくより手はない。
訪問した顧客に対し、さらなる市場の精査を依頼した。

昼食の時間を飛ばし、次のアポ先へと向かう。
昨日ご馳走になった顧客の案内で、桃園にある携帯電話メーカーの最大手に行き、製品PRと市場情報の収集をした。
みんな懸命に協力してくれている。
弱音など吐かず、尚一層頑張らねばならない。

ホテルに戻り、レポートをまとめているうちに、朝、すっぽかした相手JWさんが来る時間になった。
彼は、以前に当社の商品を扱う代理店の担当者だったが、大手PCメーカーに転籍し、生産管理をする立場に収まっている。
彼とホテルの2階にある和食レストランに行き、コース料理を食べた。
この店は出張のたびに顧客との会食で利用している。
高いが雰囲気もあり、味やサービスも及第点で、まずまず良いと思う。
今朝の非礼を詫びる私に、彼は笑顔で今後の協力を約束してくれた。
ありがたいことだ。

食後、1階ラウンジに移り、遅れてやってきた義弟のKYさんも合流し、暫く歓談していた。
彼ら二人は直接の知り合いではないが、私以外の接点として、JWさんの前の職場には今もKYさんの奥さんが働いているのだ。
その奥さんもやってきて、顔つなぎと挨拶をした後、JWさんは翌日の墓参の準備があるので帰っていった。

さあ、その後がいけない。
KYさん夫婦は昨年7月ゴールインのまだ新婚さん。
いつものベタベタが始まった。
あほらしいのは私。
あまりにも馬鹿馬鹿しいので、そっぽを向いていると今度は声や音を立てる。
打つ手なしの状態であった。

しかし、義弟の幸せそうな顔を見ているとこちらまで心が安らかになる。
その義弟が私に言った言葉がその後の私の耳を独り占めにした。
「お義兄さん、変わったよ。穏やかになった。こんな幸せそうなお義兄さんを見るのは初めてだよ」
彼は今の私の周りにいる人との関わりを指して言っているのだ。

彼らが残していった幸せの置き土産を私は部屋で膿みの向こうに送りたくて電話した。
だが、会話のつまらない枝葉末節に引っかかって、いつものケンカ、そして決別話。
どうしてこうなるのだろうか。
KYさんの言葉を実感しているはずの私がなぜこんな馬鹿な話ばかりするのだろうか。

いつもの結末で、向こうが決別を拒否してくれて、仲直り、そして主因の私が謝罪。
望んでいない方向になぜ進めてしまうのだろうか。
いい歳をして恥ずかしい。
相手の心が広いから、素直だから、いつも助けられている。
本当に申し訳ない。
もっと大きな心で、素直な心でいなければならないのに、若い人に教えられている。

例によって、荷造りで徹夜。
いつもの出張前のように、昨夜はほとんど寝ていない。

7時30分発の急行で関西空港へ。
予め分けておいた荷物のうち、台湾へ持っていかないものをコインロッカーへ。
鍵を上海に忘れたため、5日の一時帰国の際に自宅へ寄れないからだ。
さっさと中に入り、JALのラウンジでのんびり過ごす。
ここはPC用のビジネスブーズは3つしかないが、他にも接続できる普通の席が沢山あるので助かる。
免税店で土産の化粧品と自分用のオーデコロンを買い、新聞を4紙読みあさった。

JAA211便に乗り込んだら、満席でもないのに私の席は隣がつまっていた。
しかも老夫婦である。
今の会社はエコノミーが基本。
ジャンボの3人席はかなり窮屈で、離陸後にガラガラの後部座席への変更を頼み、移った。

久しぶりの台北空港は気温28度。
冬から夏へ直行されると体調維持が難しい。
タクシーに乗り、常宿のシェラトンへ向かった。
タクシー代は台湾元で1300、日本円で5,000円足らずだ。
これなら1980元のホテルカーにするほうが安全でいい。
帰りはそうしよう。

荷物を解き、すぐに内湖の顧客に向かう。
商談後、そこの会長と行きつけの台湾料理店へ。
途中、彼の友人も加わり、宴は楽しく過ぎた。
店の老板も一緒に加わってきた。

が、その後がいけなかった。
起床は11時。
前夜の就寝は午前5時だった。
朝昼兼用の飯は、妙なパン2切れと、めかぶ入り玉子ご飯。
めかぶは好きだが、玉子とは相性がよくないと判った。
水戸黄門の続きを観て、午後から「妻」と車で買物に出かけた。

中国での右側通行の交通に慣れているとはいえ、自分では運転しないので、日本の左側通行は戸惑うこともなくいつものように運転することができる。
4件の商業施設で衣料品や日用品を買い、よく行く回転寿司屋で夕食。
鉄火巻が不味くて嫌になった。
それでも8皿食べた。
上海の「花蝶」のほうがずっと美味かった。

メッセンジャーでJJさんとチャット。
いつもと変わらない調子だが、どこか距離を意識させる。
突然、私の名前を聞いてきた。
知らなかったのか。
名刺も渡してあるのに・・・。

漠然とした不安感が脳裏をよぎる。
荷造りは3時に終わったが、眠れないから撮り溜めの水戸黄門を最後まで観た。
起床は5時。

5時45分にJJさんが回ってくれたタクシーに乗り、雨の降りしきる中を浦東空港へ向かった。
こんな早朝の見送りはすごく嬉しく、また、申し訳ないという気持ちも伴ない、自分に関わる人の心の優しさに胸が熱くなる。
この気持ちを私は忘れてはいけない。
ところが、愚かな私はつい忘れてしまうことがある。
というより、咽喉元過ぎれば・・・、きっちり忘れる。
馬鹿だと自分でも思う。
今回は、忘れてはいけない。

上海空港ではPCがほとんど使えなかった。
JALのラウンジではLAN接続ができるブーズは僅かに5席。
大抵、一旦席に着いたら搭乗まで占拠して離れないから、回転しないで多くの人が待ちぼうけを食らわされる。
今朝もそうだった。
せめて無線LANでも整備してもらいたいと思う。

8時台の大阪行きは結構混んでいた。
中国東方航空との共同運航便にしているので、中国の人が多い。
双方で料金に大きな違いがあるが、私はJALで申し込んでいる。
チェックインもしやすいし、ラウンジも使え、変更や交渉がし易いからだ。

正午前に大阪空港へ着いたら、雨で、かなり寒かった。
気温は8度だという。
同じ雨でも上海が20度を少し超えていたので、春から冬へ逆戻りしたようだった。
空港について忘れ物に気がついた。
大阪の自宅の鍵がない。
さらに、日本と台湾の小銭入れがない。
すぐに息子に電話して、帰宅時間を聞いたら運よくほぼ同じだと判り、南海電車に乗った。

荷物を家に運び込み、息子の鍵を借りてなんばへ出て、買物をした。
途中、仕事を終えた「妻」と落ち合い、さらに買物を続け、帰宅したのは19時過ぎ。
久しぶりに「妻」が作ってくれた食事に感無量。
やはり自宅がいい。
今回は家族全員が揃う事はないが、バラバラに食べても自宅の飯は美味い。

夜遅くまで水戸黄門の撮り溜めビデオを観る。

英語は苦手

2006年3月31日
起床は7時。

昨日のベーコン+スクランブルエッグに加えたのが、野菜サラダとスプリングオニオンソテー。
要は葱炒めカレー味だ。
あまり美味くなかった。
葱とカレーが合わないのだろうか。
だが、カレーうどんの葱の斜め切りは美味い。
葱は炒めたらいけないのかもしれない。

出張者とL部長が蘇州へ行った。
その間に業務の区切りを付け、来週の台湾出張のために各所へ連絡を取る。
アポイントメントは英語によるメールと電話。
現地での交渉もほとんど英語。
どうも英語だけは好きになれない。
自ずと足が遠退くのはこの理由だが、仕事だからそんな事は言っておれない。
台北3日間のうち、仕事のできる1日半のスケジュールをフィックスした。

前職ではパートナーがTOEIC900オーバーのバイリン娘。
そういう人の隣ではシャイな私は恥ずかしくて何も話せなかった。
今もそれは変わらない。
日本語のわかる中国人に対して中国語が話せないでいる。

出張では一人だから自分で話すしか仕方がない。
下手な英語を無理してしゃべるが、やはり心は落ち着かない。
一応自分も650取っているが、これごときでは読み書きはできても満足に話せないのだ。
と言って、勉強しても歳だからこれ以上は良くならないだろう。

終業後、交通カードの残高が少なかったので、明日の浦東空港行きのタクシー代などのために補充しようといつものコンビニに行ったが機械故障でできなかった。
仕方がないので地下鉄中山公園駅まで出向き、ついでに夕食を食べ、蘇州から帰還してきた人たちと虹橋賓館で合流し、報告を聞いた。

その後、一旦帰宅し、荷物を置いて、上海体育館に向かい、JJさんとその自宅近くで会った。

中国人のアイレベル

2006年3月30日
起床は7時。

ベーコンとスクランブルエッグの朝食を作る。
ちょっと栄養価は高いが、自分で作ると美味い。
朝からのおさんどんは何度かやってきて、慣れた。
結構楽しいものだ。
でも、後片付けをすると、会社には遅刻するハメになった。
これではいけない。

昼食は先日のJ工場長の結婚式でお世話になったZLさんとL部長と3名で「花蝶」。
帰りに自宅へ寄り、シャワー器具の取替え工事を確認。
どうも私が思っているようには行かない。
なぜか、モタモタしている。
困ったものだ。
中国人の大家さんだから、こういう仕様についての知的レベルが低いのかもしれない。

何も中国製が悪いと言っているわけではない。
選択し、管理する人の目の高さが重要なのだ。
中国では、このへんでよかろう、が横行する。
それも低次元で、平然と済ませる。
要は、中国なのだから、という言い訳つきだ。

基本的に違うと思う。
日本人がきっちりし過ぎるとは思わない。
国際レベルから言っても、我々が要求しているのは何も難しいことではない。
要は、これでいいのかな、と疑問詞を付けてくれればわかるレベルなのだ。
民族性で逃げる人もいる。
それならばいつまでたってもこの国は前に進めない。

日本より出張者が来た。
明日、彼らはL部長と一緒に蘇州の顧客を訪問する。

泳げない

2006年3月29日
起床は7時。

珍しく朝食に蕎麦を作って食べた。
仕事は忙しく、頑張ってこなした。
上海事務所のメンバーが珍しい麺の出前を頼んでくれた。
もうすぐ届くというところで、電話が鳴った。
しまった、昼食の約束をしていたのだ。
出前の麺を奢ることにし、みんなに侘びを言いながら急ぎ外出した。

午後、その友人と展示会を見に行った。
FPDの展示会で、日本のそれとはおよそ規模も内容も低次元のものだった。
午後からの仕事はスムーズに進み、終業後にプールへ泳ぎに行った。
やはり思うように泳げない。
以前のように肺かないだろうが、せめて1時間でも流せる体力を取り戻したい。

水泳は一度覚えたら忘れないと言うが、それは元気な身体であることが前提だ。
歳をとり、体力が大きく落ちてきた今、かつてのスピードが戻らないという程度ではなく、まるで泳げないというレベルにまで下がっている。
恥ずかしさよりも恐さが先に立つ。
35mプールを休み休みしながら10往復ほど泳いで帰った。

結局、晩飯は食べ損なった。

スペイン料理

2006年3月28日
起床は6時30分。

常熟へ行く日。
改装工事も順調で、いろいろと打ち合わせることが多く、結構忙しく過ごした。
昼食はJ工場長の新妻も交え、繁華街の最近見つけたレストラン。
運転手も交えて、楽しい食事だった。

今週は蘇州の顧客との距離を詰めるために日本から出張者が来てくれる。
週末は自分が日本経由で台湾へ出張する。
忙しさは通常の週よりも際立ってくるだろう。
そのほうが暇よりもずっといい。

上海に戻ったのは18時15分。
JJさんは会社の会食でスペイン料理だという。
私はスペインには行ったことはないが、スペインの文化や料理は好きだ。
絵画などのファインアートはもとより、音楽、舞踊、建築、文学と、世界的にもレベルの高い作品が多い。
回教の影響を強く受け、宗教を超えた文化の融合が国のいたるところにあるという。
大航海時代に絶大な権力を誇った大国の伝統がしっかり根付いている国だ。
一時期、内戦を経て独裁恐怖政治が国民を襲ったこともあったが、今は先進国に準じる位置付けにあり、安定的な国家となっている。
以前にドイツ人の友人がリタイヤ後に住みたい国として1番目にスペインを挙げていた。
日本でもスペイン料理は好きでよく食べた。
私が好きなメキシコ料理もスペイン料理の亜流と言える。

私はJJさんのスペイン料理を羨みながらいつもの「花蝶」で食事した。
同席者は、東京の友人が作った上海法人のB総経理とその同級生で旅行社に努める女性Yさん、さらに私の会社がお世話になっているネットサポート会社の女性営業担当Oさん。
日本人とこういう形で食事するのは久しぶりだ。
あれこれ、ワイワイと22時30分まで食べて飲んだ。

Yさんには早速日本行きのチケットをお願いすることにした。
今まで付き合ってきた旅行社は高くて融通が効かず、抑えている枠も少なく、発券は早めで、しかもCODのため、使いにくくて困っていた。
やはり、日本人に汗をかいてくれるのは日本人だろう。

帰宅後、JJさんがやってきて、遅くまで話していった。
話題はいつもの世話ばなし。
楽しいひと時だ。

話題は尽きない

2006年3月27日
昨夜は結局、12時30分頃に眠った。
起床は6時30分。
晴れの朝、スカッとした気分でキッチンに入り、食パンを焼いて、コーヒーを入れた。
あと片付けをし、出社したのは9時30分。
遅刻である。

L部長と「花蝶」での昼食後に自宅へ寄る。
シャワールームの温風器を入れ替えているとのことだったが、既に作業は終わっていた。
先日、大家の許可のもと、作業員が土足で上がって沢山の小さな傷をつけた床面を大家がアーイを使ってワックスしていた。
一見、良い様に見えたが、大家が帰ってからよく見たらオイルを塗布しただけ。
土足で使用する木床ならこれでもいいが、裸足で生活する私にとって、これはまさに不好!
靴下も衣服も黒く汚れてしまった。

夕食は淮海路の明治館カリー。
評判ほどは美味くなかった。
夜、JJさんと話しをした。
話題は全然尽きない。
実にリラックスできる。
起床は?時。

目覚めはアラームが働いたので6時30分だったが、結局起床したのは約10時間後の16時過ぎだった。
よく寝た。
このところ、日頃の睡眠不足がどんどん解消されているような気がする。
寝るということがこれほど快適なものであるということを私は長い間忘れていた。
これも、いつも我が家と電話でつながるJJさんのおかげだ。

JJさんは一日8時間眠らないと駄目だと言う。
7時におきるから23時には寝ないといけないので、私にもそうしろと言う。
なぜか私は素直にその理不尽な指示に従ってしまっている。
14歳から続いていた2時以降に寝るという私のアイデンティティ、「伝統」たる偉大なる習慣が崩され、私の就寝時間は確実に早くなっている。
この一週間、午前2時をまわる事はなかった。

50歳を過ぎてから、医者や周りの人々から毎日8時間以上の睡眠を強く勧められている。
「妻」も8時間睡眠の人で、私の夜更し症をずっと批判していた。
私を拒否した理由の一つがこういった生活時間のずれだった。
それなのに私はまるで言うことを聞かず、上海に来てもベッドに入るのは午前3時以降と、ずっと短時間睡眠を続けていた。
なぜ、JJさんの言うことは聞いて、「妻」の言うことを聞かなかったのか、今から考えると大きな悔いが残る。
その結果、身体の老化は確実に速度を増している。

夕方、起床してシャワーを浴び、JJさんと「柚子」へ行った。
昨年11月にこの店が強制立ち退きに遭って以来だ。
懐かしい顔がいた。
味は相変わらず美味かったが、値段は「花蝶」の約2倍、味の差は大きいものではなかった。

JJさんは料理の写真を上手く撮れることがわかった。
美的感覚がいい事は服装などである程度わかっていたが、頭の良さに加えて感受性の鋭さ、洗練性の高さを知らされた。
悔しいけど、能力は私よりもずっと上だ。
かなり腹が立つけど、それを認めることにした。

今夜も12時には寝るだろう。
明日は月曜日、魔の一週間が始まる。

幸福美満

2006年3月25日
起床は8時30分。

朝、ちょっとゆっくり起きた。
常熟へ行く車は14時に上海事務所から出る。
会社へ行くと懐かしい顔が来ていた。
元、コンサル会社のZLさんだ。
設立当時、いろいろとお世話になった。
彼女には我が社に入ってもらいたかった。
しかし、タイミングが合わなかった。
縁がなかったということだ。

途中、虹橋賓館に寄り、上司をピックアップしたところで忘れ物に気付き、自宅へ戻る。
お祝いを忘れたのだ。
乾杯の発声用のカンニングペーパーも忘れた。
自宅でお祝い袋を取り、車に乗り込んだら、今度は上司がお祝いを忘れていることに気付き、再び虹橋賓館へ。
もう笑うしかなかった。

結婚式は常熟の新しい5ツ星ホテルで行われた。
派手婚の中国にしては控えめな人数だが、盛会だった。
新郎新婦とも日本人だからこれでいいと思う。
上司のダラダラスピーチの後、乾杯の発声もすんなりやれた。
カラオケ一番手の任務も果たした。
ただ、私の後は歌いにくかったに違いない。
自画自賛そのものだ。

飲んで、飲んで、飲まれて、飲んで・・・。
L部長と二人、あっちこっちの席に行き、乾杯を繰り返した。
日本から花嫁を呼び寄せた新郎の覚悟、中国の任地へ娘を嫁がせる親の覚悟が切ないほど心に沁みる。
それにもまして、ようやく結婚にこぎつけた彼らの大きな喜びがひしひしと伝わってくる。
ただ、ただ、支援したい、と言う気持ちが自ずと沸いて来る。
上司として、仲間として・・・。
このところ深酒はなかったが、今夜はとことん飲んだ。
帰りの車の中は当然記憶がない。

運転手はみんなを降ろし、最後の我が家の前で意識が戻った私の頼みで、JJさんの家まで往復してくれた。
酔いの絶頂の私を心配してくれていたからだ。
JJさんの優しい気持ちに感謝する。

疲れた。
明日はただ寝るだけ。
老板の帰国を見送らないことにした。
多分、L部長が行ってくれるだろう。
私は行きたくない。

辞表の出し方

2006年3月24日
起床は6時30分。

朝、老板との一騎打ちの前に顧客の来社あり。
実は私が呼んだ。
老板に現実を知ってもらうためだ。
しかし、老板の頑固頭は私の声を聞かず、顧客の声も聞かず、一方的に私を責めている。
せっかく来社してもらったが、効果はあまりなかった。

その後、老板との会議で、私は何度も辞表を出しそうになった。
あまりにも馬鹿馬鹿しい本社の評価と指示にどうしようもなく腹が立った。
その度に私についてきてくれている社員の顔が出てくる。
言葉ではなく、本当に出てくるのだ。

この対決が始まる前に決めていたことがある。
辞めるのは簡単だが、後の体制ができていない状態で、自分の意地を通すために辞表を出すことだけはしないでおこう、と。
その決心が今日はかなり揺らいだ。
以前の私なら、きっと辞表を出して退席していたに違いない。
でも、意地を引っ込め、ただ、耐えた。
ものすごく悔しかった。
とにかく頑張って評価を変えさせようと部下と確認した。

夕方より来客があり、応対。
皆で食事ということになったが、私は先約があったので不参加とした。
「花蝶」でJJさんと食事する約束だったのだ。
顧客よりも、上司との食事よりも、友人を選んだ。
これも胸にある辞表を出さなかった反動かもしれない。
堂々と「お先に失礼」をやった。

「花蝶」ではK店長に私の来店を内緒にするように頼んでいた。
実は明くる日にあるJ工場長の結婚式出席する日本の親戚をもてなすため、J工場長が21時過ぎから予約を「花蝶」に入れていたのだ。
勿論、私の紹介で。
でも、こういう店は口が軽いから多分ダメだろう。
ま、バレても開き直るつもりだ。

JJさんとはしっかり話した。

対決する時の覚悟

2006年3月23日
起床は6時30分。

朝、浦東にある取引先へ直行。
同じ会社ながら日本側と中国現地法人の我々との間では判断に隔たりがあることを感じた。
なぜ、日本からは我々の視野が狭く見えるのだろう。
逆だと思う。

日本にいて世界は見えない。
上海にいるとアジアが見える。
なぜ彼らはわからないのだろうか。

顧客の望んでいることを日本の担当者は未だに実感していない。
馬鹿としか言いようがない。
こういう愚かな担当者の言うことしか聞かない会社の上層部に本当に腹が立つ。
今日午後、その中心人物が来る。

私は何も紛争を起こそうとしているのではない。
ただ、現実を直視して欲しいだけ。
ところが、日本にいる彼らは、我々が何もせずにあてがい扶持を待っているかのような誤解を声高に言ってくる。
腹が立つどころではない。

老板が来ると暫くは仕事オンリーの生活になるだろう。
JJと話をする時間もないかもしれない。
当然、25日の土曜日にあるJ工場長の結婚式の乾杯の発声の練習もできない。
苦手の中国語、何とか上手くなりたい。

いい先生はいないかな。

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